「 第98回 箱根駅伝を走って 」
箱根駅伝を知り、駅伝を知り、筑波大学で走る意味を知った
筑波大学陸上競技部長距離パート
2022年度駅伝主将 福谷颯太
第98回箱根駅伝に関東学生連合チームの5区走者として出場し、タイムは1時間13分01秒で区間10位相当でした(オープン参加のため参考記録)。目標を1時間13分00秒、区間10位相当としていたので、概ね目標を達成したと言えると思います。
この成績を残すことができたのも、箱根駅伝復活プロジェクトの取り組みに共感いただいた多くの皆様から沢山のご支援や応援があってのことです。本当にありがとうございます。
昨年10月の箱根駅伝予選会において、筑波大学は予選を通過することができず、チームとしての本戦出場が叶いませんでした。毎年、僕たち筑波大学に期待して応援くださるOB・OGや支援者の方々には、申し訳ない気持ちで一杯でした。
チームは落胆しましたが、僕が関東学生連合チームに選出されたことで、筑波大学の代表として箱根駅伝に出場することができたことは、せめてもの救いだったと思っています。オープン参加の連合チームというかたちではありましたが、箱根駅伝を経験した感想について書かせていただきます。
箱根駅伝を実際に走ってみて、思い知ったのは、「箱根とは何か」「駅伝とは何か」「筑波大学とは何か」ということでした。私の中で漠然としていたイメージや思い込みが、小さな次元であったことを痛感させられることになりました。
僕は元々「箱根駅伝」というものに見聞きする以上の魅力を考えたことはありません。東京出身なので、小さな頃から箱根駅伝を観て育ってきました。箱根駅伝はとても身近な存在だったと思いますが、「なぜ選手は、全ての情熱を注いで走りたいと思うのだろう」と、その「何故」がわからずにいました。
様々なものを犠牲にし、辛い練習を乗り越えてまで走りたいと思わせる箱根駅伝の魅力とは一体何なのか、はっきりした答えがない中で、僕は箱根駅伝を目指すようになっていきました。
走ること自体は好きだったので中学から陸上競技を始めました。また、関東で長距離走を専門にしていたので、大学でも競技を続けようと思ったときには、自然と箱根駅伝を目指す自分がいました。筑波大学に入学した年に、チームが26年振りに箱根駅伝出場を決めたこともあり、自分も出たいと思う気持ちは、より強くなったように思います。
2年次は、予選会で18秒差という僅差で涙を飲み、箱根駅伝を経験する機会を失い、箱根駅伝の正体を知ることができないままでした。そして、3年になっても、依然として「自分たちの夢の舞台」のままの箱根駅伝を目指してきました。
上級生(3年生)になった僕は、駅伝副主将に立候補もし、必死に練習しましたが、チームとしての出場権を得ることができず、本当に悔しい思いをしました。しかし、幸いなことに、関東学生連合チームに選出され出場機会を得ることになりました。
喜ぶべきことなのですが、正直、少しモヤモヤした気持ちでいました。チームで出場できないのに、自分一人だけ出場して、何になるのだろう。仲間の皆と一緒に出場するために、それぞれが自己犠牲を払ってまで、チーム一丸となって頑張ってきたのに・・・。心の底から燃えてこないような感覚!?自分でもよくわからない感じで、どうモチベーションを高めるか難しい精神状態でした。
そんな折の11月に、昨年卒業した猿橋先輩と話す機会がありました。先輩が就職した企業の学生向けの説明会があり、講師として大学を訪れていたのです。練習に顔を出してくれた先輩から、ある言葉を投げかけられ、自分の考えが少し変わりました。先輩がどんな気持ちを込めたのか分かりませんが、「箱根を走ったら人生変わるよ」と言われました。
それには様々な意味があると思いますが、人生が変わるくらい凄いものだから全力で臨めよ!という励ましだったと思います。僕は「箱根を走ったら人生が変わるの?」だったら、人生が変わるほどの箱根駅伝の凄さを知ってやろう」と思いました。「その正体を知るためには、出来る限りの良い準備をして臨まなければならない」と決心することができました。
しかし、大学単独チームではないので、走る区間がどこになるのか、まったく見当がつかないのには困りました。イメージして練習することができないからです。これもモチベーションが高まらない一因だったような気がします。
12月12日に連合チームの区間発表があり、5区に内定しました。5区は当初希望していた区間ではありませんでしたが、区間を決めるミーティングの後、「もしかしたら5区になるかもしれないな」と感じていました。最終的には、自分の意志で5区を走ることを決めたのですが、正直とても悩みました。
箱根の山 以外の区間ならば、すんなり気持ちが固まったのですが、「箱根駅伝といえば」といえるくらい象徴的で過酷な区間である箱根の山登りの5区はなかなか決心がつくものではありません。その悩みを同期の小林竜也に相談したところ、「そういう話が出ているなら5区で走るのを見たいし、福谷なら大丈夫!」と言ってくれました。弘山監督もそうですが、以前から登りの適性を評価してくれていたので、小林の一言が決め手となりました。
その後、ハーフマラソンを走り切れる体力を養うことと、上り坂の対策(練習)をしながら箱根駅伝の準備を進めました。その頃には、モヤモヤする気持ちはすっかり消えて、集中する自分がいました。練習での手応えもどんどん増していき、箱根の山でも(区間賞は無理だと思っていましたが)大崩れはしない自信が芽生えてきました。「もしかしたらかなり良い走りが出来るのでは」とポジティブに考えられる自分になっていったのです。
実は、箱根駅伝予選会後は調子の悪い時期が続いたので、本戦に向けては不安がありました。本番が近づくにつれて調子が上向き、自分の走りに自信が持てるようになるくらいに復調していきました。それもあって当日は思ったより緊張しませんでした。
自分の役割を全うすることだけを考えて襷を受け取り、走り出しました。後ろからくる2人にすぐ追いつかれましたが、焦りはありませんでした。ペースは予定通りだったからです。函嶺洞門を抜けてから、その2人を引き離し、前の1人を抜かしました。レースの入りは想定以上に良い感じだったと思います。
しかし、大平台を抜けてから身体に少しずつ異変が起こり始めました。腹痛の兆候を感じ、一旦ペースダウンすることを余儀なくされました。その時に、先ほど引き離した神奈川大に追い抜かれ、それを追う形になりました。並走しているうちに身体が動くようになったかと思ったら、次は右足の股関節と左足のハムストリングが痙攣しそうになってきました。
痙攣だけは起こさないように走らざるを得なくなり、神奈川大から離されてしまいました。さらに、後ろから来た東海大にも抜かされ、頂上付近では低い気温と強風で身体が全く動かなくなりました。
下りに入ってからは登りで体力を使い切ったため、身体が言うことを聞かず、脚は痙攣の一歩手前で、立ち止まりたくなるほどの苦痛を心身に感じました。走り出す前までは自信はあったものの、天下の険と言われる箱根の山は、僕の想像を遥かに超えるほどのキツさでした。
最初の1kmで運営管理車(監督)から声をかけられた後、情報が入ってこなかったため、「もしかしたら、とても遅いペースで走っているかもしれない・・・」という不安に襲われていました。16kmの給水の時、区間順位が10位相当だと岩佐から伝えられても「励ますために嘘を言ってるのではないか」と思うほどでした。それくらい身体が動かない(止まっている)感覚しかありませんでした。
結局、残り1kmで運営管理車から再度「区間10位相当」とマイクを通して伝えられ、やっと自分の走っているレベルを実感できたのです。そこから気を取り直して、自分を奮い立たせて、芦ノ湖畔を駆け抜け、ゴールに飛び込みました。
ラストの長い直線でサングラスを頭にかけた後、その時は自分で意識したわけでもないのに、自然と笑みが出てゴールしていました。そして、その数秒後、ゴール直後に自然と涙が溢れてきました。今まで味わったことのない感情。僕は、泣くのを我慢することが出来ませんでした。
箱根駅伝前に猿橋先輩に言われたように人生が変わったかどうかは分かりませんが、「箱根駅伝は、何故 人々を惹きつけるのか?」実際に走ってみて、その理由が少し分かった気がします。全ての区間が20km超の距離となり、自然現象や激しいアップダウンのコースに耐えなければいけません。
それだけに留まらず、自身の限界に挑戦しながら、他の大学と勝負しなければなりません。そうやって選手が必死に頑張って走る姿に、人は魅了され、走りたいと思う中高生が出てくるのは当然のことだなと思いました。
また、僕は中学から陸上をはじめ、高校生までは毎年のように駅伝に出場していました。駅伝は、複数の選手が襷をつないで1つのレースが完成する団体種目でありながら、走っている最中は孤独で誰も助けてくれない個人種目でもあります。さらには、襷が繋がらないかもしれない不安を感じながら走らなければならないこともあります。厳しい条件が揃う箱根駅伝を走って、駅伝競走が過酷であることを思い知らされました。
おそらく、ゴールに向かって笑みが出たのは、楽しかったからではなく、心の底からホッとしたからだと思います。ゴール後に泣いてしまったのは、今まで張り続けていた緊張の糸が解けたからだと思います。記録はどうあれ、箱根駅伝という大舞台で、皆が繋いだ襷を往路のゴールまで運ぶことができた安堵感と達成感は、これまで経験したことがない大きな激流となって心に流れ込んできました。
また、今回はコロナ禍で例年より沿道の人は少なかったと思いますが、多くの方が声援を送ってくださいました。僕の下の名前や母校(高校)の名前で応援してくださる方までいて驚きましたが、嬉ししかったです。
何よりも驚いたのは「学連」や「連合チーム」ではなく、「筑波大学」で応援されることの方が圧倒的に多かったことです。筑波大学は、僕自身が思っている以上に期待されていることを実感しました。
筑波大学が箱根駅伝に再び戻ることは、チームの目標だけでなく大学の願いでもありますが、それと同時に責務だと思えてきました。もっと言いますと、箱根駅伝の歴史的な観点からは、宿命なのかもしれません。筑波大学は箱根駅伝にとって重要な大学だと感じるほどの熱量が沿道に存在していました。
これら僕が箱根駅伝で感じたことや経験を、今後はチームに還元し、来年の箱根駅伝に筑波大学がまた戻ってきて戦えるよう、僕なりに尽力していきたいと思います。また、僕自身としても、どの区間を任されてもしっかり役割を果たせるような強さを身に付けていきたいと思います。
僕自身がもう一度箱根の舞台で戦いたいですし、チームのみんなにも箱根駅伝を経験してほしいと強く思います。これほどまでに人々を魅了する箱根駅伝をみんなで戦うことができたら、どれだけ幸せなことだろうとワクワクする自分がいます。
学生時代に経験できる「あらゆることを犠牲にしてでも、箱根駅伝を目指す価値がある」と今は心から言えます。その夢を掴むために、あと1年間、頑張っていきますので、今後も応援の程よろしくお願いいたします!