片山 茂かたやま しげる
【プロフィール】
1971年3月 愛媛県立宇和高校卒業
1975年3月 東京教育大学体育学部卒業
1976年4月 県立宇和高校着任
県立宇和島南高校着任
県立三瓶高校着任(校長)
2013年3月 県立吉田高校校長で定年退職
<競技歴>
大学3年次 日本インカレ(国立競技場) 1,500m 5位
箱根駅伝 1区3位(2位と同タイム、チームは13位)
大学4年次 箱根駅伝 1区1位(チームは11位)
<指導歴>
1988年 全国高校駅伝男子 宇和島南高校(18位)=初出場
1989年 全国高校駅伝男子 宇和島南高校
<近況>
県立宇和島南中等教育学校 講師(生徒悩み相談)
「今や昔・・・参考にもならない当時の思い出」
卒業して42年になります。時代も変わり 、大学当時の記録で、今では高校生が当たり前のように走っています。後輩に何の参考にもならないかもしれませんが、当時を思い出してみました。
大学生活は保谷市(現在の西東京市)にあった保谷寮からスタート。月千円の寮費と玄関を出れば直ぐにグラウンドが魅力でした。でも、布団を敷くのがやっとの8人部屋で、冬は寒さで目を覚ます風通しの良い部屋で、寝ている間に、肩に雪が積もったこともありました。さらに先輩へのマッサージ付き。そのせいか同期生で突出した選手はいませんでしたが、連帯感や仲は良かったと思います。
練習では、これまで一人で練習してたので、みんなで集団走ができることが嬉しかったです。山西哲郎先生の御指導で始めたオートミールでの朝食、ヒルトレーニング、マラニック等・・・。極めつけは、公害が社会問題であった時代の泥水の隅田川を横断水泳したこと。土手に上がればピーマンを生でかじりつき。良き師匠に出会えたものです。
1・2年次は怪我ばかりしていました。思い出すと脚の全ての部分を怪我したような記憶があります。そこで当時の練習で心掛けたことは、怪我をしない走り方とあと1周(400m)を走れるスタミナの養成でした。先生方や柴野照夫先輩からの指導を生かしながら、着地は氷を割らないような蹴らない走りで怪我予防とスタミナ養成を心掛けました。
先生や先輩の御指導、先輩が作った練習計画はバランスのとれた定食だと考えました。自分の個性を生かすにはプラスαの取り組みが必要だと思います。私のプラスαは、合同練習後に青梅街道をひたすら走ることでした。東京は私の田舎と違い、車のライトで走れました。「走る・食う・寝る」に、どっぷりつかった大学生活でしたが、今思うと、人生でもう二度と経験することなどできない生活でした。自己への挑戦は、苦しいけれど楽しくもありました。
卒業後、当時の女子長距離部員である伊藤博子さん(現在は同志社大学講師)から箱根駅伝前の食事メニューを送ってもらいました。当時の商店は、正月3日間は休業。女子長距離部員は、大晦日に食料の買い出しと調理に大変な忙しさだったと思います。箱根駅伝本番の日、1区のニュースに号泣されたと後で聞きました。多くの先輩方や部員の支えがあって走れたことを、今でも感謝しております。
駅伝当日は、つい遊び心が出てしまい、スタート直後に飛び出して、5キロ通過が自己タイ記録。“しまった” と後悔しながらも、先輩方の声援を受けながら白バイの後を追っかける嬉しさもありました。六郷橋あたりの残り3キロで脚がつり始めましたが、永井純先生の叱咤激励でなんとか2区の山崎君に襷を渡すことができました。襷渡しの際、普段は穏和な山崎君の顔に厳しさとたくましさ感じ、今年は良い成績が残せると感じたことが思い出されます。先輩方や部員の応援が後押しとなり、「自分の実力以上に走ってしまった」という感覚はとても不思議でした。今でも、感覚だけで突っ走ってしまった箱根駅伝の1区を忘れることはありません。
皆さんの健闘を祈ります。